──ばれた!!


 
──畜生……!!
 



 
眉間の皺をくっきり浮かび上がらせ、今にも噛みつかんばかりの表情で廊下を闊歩する人物に、すれ違う人々は慌てて道を開ける。サロンでミュージカルが行われるはずが、ヴァンパイアがでたとかで騒ぎになり、その噂が宮殿内に囁かれ現在進行形で伝わっている時だった。
王弟殿下の不機嫌っぷりは、毎夜行われる賭け事のせいで珍しいことではなく、見慣れたものだったので、恐ろしいヴァンパイアの噂で恐怖や不安を感じていた者達の常ならざる恐怖を多少なりとも和らげる役割を担った。
サロンに出席していたはずなので、ヴァンパイアに関して何か知っているのだろうが、まさか今や歩く爆弾のような王弟殿下に詳細を聞く勇気のあるものはいない。大人しく彼が自室に向かうのを見送るにとどまった。
閉められたドアは痛そうに悲鳴をあげた。
彼に出くわした人々はとにかく八つ当たりを受けずに済んでよかった、と胸を撫で下ろす。
 
 
賭け事が好きで、美しい妻をほっぽりだし、夜には男性との戯れに興じる王弟殿下は、兄とは違う意味で人々の興味を引いた。太陽王の影に隠れながらも、時と場所をはばからずこれだけ感情を露にすることで、その存在を精一杯顕示しているようにも見えた。彼が本当に月のように、ひっそりと皆を照らすような人柄ならば、その存在は宮廷に埋もれていただろう。
だがもちろん、そのような、珍獣に対する興味と似た視線を受けることは彼自身の望むところではない。
人並みの野望や自己顕示欲があり、彼の立場にいたなら必ず持つであろう王である兄に対する嫉妬、嫌悪といった暗い感情が彼の心のうちに渦巻いていた。しかしその感情を制するに見合うだけの人並み外れた自律心だとか聡明さを持ち合わせたわけではない。
彼が持つ負の感情は彼に支えきれなくなり、ついに兄を倒す企てを実行するに至った。それが今回の彼の不機嫌の原因である。怪しげな錬金術師を雇い、ミュージカルに興じて侍女に兄を襲わせ、失脚させるつもりが思い通りに行かず見事失敗。挙げ句、逆に自らがヴァンパイアに操られ醜態をさらす始末。
謀反の企てが露呈したことに対する自らの処罰への不安、思い通りに進まないことに対する苛立ちと、周囲への羞恥で彼の心のうちの焦燥は今までになく膨れ上がっていた。
 
 
自室のドアを豪快に閉めると部屋のシャンデリアが震える音が続いた。扉にもたれ掛かり、その音が終わるのを待って、フィリップは豪奢なベッドに突っ伏した。枕に顔をうずめ、くぐもった声でうめく。

 
――畜生ッ…最悪だ!!
錬金術師……あいつにまんまとしてやられた!!
謀反の罪で、私は処罰を受ける?……私こそあいつに良いように利用された被害者ではないか。
 
……運が悪い。兄より数秒遅くこの世に生を受けたときから、不幸の星の元生まれたに違いない。
 
彼は今現在の不幸から過去へ遡り自らの運命を呪うのに夢中で、いつのまにやらドアのところに立っていた人物に気付かなかった。
 
 
「……それだけ悪態つける元気があるなら心配する必要もなさそうだな」
 
突然背中に投げ掛けられた予想外の言葉にフィリップは弾かれたように上体を起こす。ゆっくり歩み寄ってくる人物は、先程の騒ぎの中で見た覚えがある、ジプシー。確か兄が気に入っていた。
 
「……なんだ、貴様は。兄に私の部屋への入室許可でももらったか」
 
だとしても、部屋に入るときにはノックぐらいすべきだ、と思ったが、既にベッドに腰かけようとしている不躾な相手にわざわざ礼儀を教えてやる義理はない、と考え口を閉ざした。
睨み付けるフィリップにもお構いなしで、ごく自然な動作で隣に居座ってしまった相手はゆったりとした口調で言う。
 
「いいえ。ここに来たのは飽くまで俺の意思」
「何のために。慰めにでも?」
 
できるなら今すぐ追い出したい気持ちだったが、自分が出ていけと行ったところで出ていきそうにないし、召し使いを呼んで追い払わせるのも今のフィリップには最もしたくない行為だった。今は王宮の者たち誰一人として関わりたくない。一人になりたい。
 
「まぁ、慰めというと貴方は不快だろうけど。違いないかな。……ミハイルとは因縁があってね。あなたも彼に利用された身。……しかし元気そうなので安心したよ」
「元気にみえるか」
「先程から、壁に八つ当たりしたり、一人で罵ったりしていたじゃないか」
「してない」
「部屋の外からでも貴方の罵声が聞こえたが」
「……」
 
どうやら無意識のうちに心のうちを声に出していたらしい。
頭より先に感情が、感情と同時に体が動いてしまう性質なのは自覚していたし、冗談にしてはおもしろくない。彼の言うことはおそらく事実。そうとわかればフィリップの頬は羞恥に染まる。
 
「……だからなんだ!!ならば、心配には及ばないと、もうわかっただろう。さぁ出ていけ!!」

一気に感情が沸点に達したフィリップは立ち上がり、ジプシーをにらみつけドアを指差す。

「おいおい…。命の恩人をそんな無下に扱うのか」
「何をわけのわからないことを」
「あなたは意識がなかったから覚えていないかもしれないが、ミハイル…いや、マダムノワールに操られていた貴方を正気にさせたのは私なのだが」
 
確かにフィリップには覚えがなかった。記憶にあるのは侍女のミレーユがヴァンパイアになっていて、彼女に襲われたこと。首筋を噛まれ、次の瞬間、気が付いたときには辺りは騒然としていた。兄に計画がばれ、怒りと羞恥で頭が一杯になり、そのまま逃げるようにここに来てしまったのでそんなことは気にも留めていなかった。
しかし、例え助けられたにしてもこのジプシーの呆れと不遜が入り交じったような表情が気に食わない。
 
「別に恩を着せに来たわけではないさ。ただ、話くらいはしてくれても?」
「貴様は私が腐ってないか心配で、ここにきた。そいつは特に気にかけるほど病んではいなかった。ならばもう話すことはないだろう?」
「はは……。そうだな。では理由を変えよう」

今理由とやらを考えているのか、それとも整理しているのか、形のよい顎に手を当てしばしジプシーは黙った。

「変わった性癖を持ち、ギャンブルが好きで、政には無関心な王弟を演じ、影で恐ろしい企てを立てていた貴方に興味がある、というのは?」
「……貴様、死にたいのか」
「あいにく死ねないもので」

ヴァンパイア騒動の真っ只中にいたにも関わらず、まったく状況を把握していなかったフィリップにはジプシーの言葉が理解できない。それに気付いたジプシーは仰々しくマントを翻し、いかにもそれらしく、自身がヴァンパイアであることを告げる。いきなりそんなことを言われても信じられるわけも無く、フィリップは、いかれてる、とただ頭を振ったが、不意に抱き寄せられた。

「貴様っ何を」
「静かに」

強い力で胸の辺りに頭を押さえつけられ、大人しく黙ると、聞こえるはずのジプシーの心音が聞こえなかった。驚きに見開いた目でジプシーを見上げれば、これでわかっただろう、と幼子に対するそれのような微笑を浮かべていた。

「ヴァンパイア…」
「そう」

ヴァンパイアが存在する事実は身をもって知っていたので、ヴァンパイアである証拠を提示されて尚疑うのも頭の堅い話だった。
興味がないといったら嘘になる。悠久の時を生きるヴァンパイア。人を見下したようなこのジプシーの態度は気に食わないが、話を聞く価値はある。

「…なるほど。いいだろう。話し相手になってやる」

類まれなる存在を目の前にしているとわかった途端、態度を一変させたフィリップにジプシーはくくっと下を向いて笑った。そんなジプシーの様子にフィリップは少なからず苛立ったが、もう声を荒げることはしなかった。

「ジプシー、調子に乗るなよ。貴様は私と話す許可を得たんだ。さぁ、何か面白い話をしろ」
「…っと。その前に。ジプシーはやめてくれないか。私にも名前があるし、第一本業じゃない。私はフランシス」
「…ふん。そんなのどうでもいい」

フランシスの前に仁王立ちしていたフィリップだったが、もうその必要もないのでフランシスの隣に腰掛けながら言った。真横に座れば、フランシスが非常に整った顔のつくりをしていて、見た目ではいいとこの貴族のような雰囲気があると思った。フランシスの動作は、振り返るときや、笑みを作るときなど、普通の人よりもゆっくりだった。

「さっきも言ったが、私は貴方に興味があるんだ」
「……」

フィリップは押し黙ったままだったが、興味があるといわれて悪い気はしていなかった。それが、いつも周囲に抱かれているような、珍しいものでも見るかのような好奇の気持ちからなのか、あるいは純粋に自分のことを知りたいと思っているのか、フィリップには判断がつかなかったが、なんとなく後者のような気がした。それは直感でしかなかったが、フランシスが俗世間の者達とは非なる存在であったからかもしれない。
そういった興味をもたれるのは、いつでも兄だった。それは相手に対する欲求の上に成り立つものだからだ。誰もが兄に好かれたかった。
兄の好きなことは、喜ぶ贈り物は、趣味嗜好は…。
フィリップに対してそのように思う人々は一部の奇特な男色者のみであった。

「フィリップ殿下。なぜあんな企てを?私にはあなたが王になりたいと思っているようには見えない」

振り向けば真っ直ぐ射抜く瞳と目が合う。

「なぜ?」
「貴方は自分が王になりたかったのではなく、ただ兄にも同じ思いを味合わせてやりたかった」

互いに目を合わせたまま、沈黙が流れた。推し量るようなフィリップの視線と、そんなフィリップを見透かすようなフランシスの視線が絡み合っている。フィリップは、フランシスの言葉を反芻していた。同時に、自分のいる空間がいつもと違うようにも感じた。自分の気持ちを整理し、改めて言葉にするなんてことは今までになかったし、したくもなかった。そうすれば惨めな気持ちになるのは目に見えていた。しかし、今じっくり自分と向き合っているのは、フランシスに独特な空気がある所為だと思った。彼の周りだけ時間の流れが止まっているように感じる。フランシスを囲う、靄がかった透明な衣の中に、自分も一歩踏み入れた気分だった。
沈黙を破ったのはフィリップだった。フィリップは小さく息を吐いた。

「……あぁ、うん。そうかもしれない。確かに…」

ぽつりとつぶやくように言えば、フランシスは拍子抜けしたような顔をしていた。

「なんだ、その顔は」
「いや、あんまり素直なもので。図星を突いたつもりだったんだが」

フィリップは、しばし見定めるように相手を見つめ、一つため息をつくと後ろに倒れこみ柔らかいベッドに沈んだ。
そんな様子をフランシスはただみていた。

「不公平だなんて、今更なのはわかってる。だが大人しく納得なんてできないだろう?」
「でもそれなりの生活は送れる。少なくとも不自由なんてないだろう」

フランシスが何か言うたびフィリップは黙った。彼は、今は時間を気にせずゆっくり考えることが正しいと思っていたので、その間に相手に対する答えを探しているわけだが、さっきまでは口を開けば怒鳴っていたので、この空白が何を意味しているのかフランシスにはわからないようで、不思議そうにフィリップを見つめていた。

「お前、先ほど私を変わった性癖の持ち主だなどと言ったな」

ごろんとうつぶせになり、下からフランシスを睨みつける形でフィリップが言う。

「そう聞いたもので」
「……兄の所為だ」
「なぜあなたの性癖に王が関与する?」
「私を異端児扱いさせるためだ!」
「……だからといって」

王だからといって、人の性癖まで命令して変えられるわけではないだろう。
怪訝な顔をするフランシスにフィリップはいっそう近づき、睨みつけたまま、またしても黙り込む。口を開くのを躊躇するようにしっかり唇をギュッと締めていたが、やがて目をそらして言った。

「幼少期から私はドレスを着させられ、女の扱いを受けてきた。私の周りにはそういった趣味を持った男性しかいなかったし、それが当たり前だと思っていた。私自身、ちやほやしてくれるのはそういったものたちだけで、その中にいるのは居心地が良かった」

フィリップの告白をフランシスは黙って聞いていた。長年生きていれば多少のことには動じないのか、特に驚いた様子も不快に感じた様子も無いフランシスに、フィリップは先を続けた。

「彼らに賭け事も教わり、政治とはまったく関係のない次元で私は生きていた。あとからそれは私に王座への野心を持たせないための策略だったとわかった。だがもう遅いだろ?王弟殿下は変わり者の異端児なんて評価が出来上がってた」

淡々と己の生い立ちを話すフィリップの口調はどこか他人事のようだった。そんなフィリップを哀れにでも思ったのか、フランシスは何気なく彼の背中をなでたが、その手は振り払われた。

「別に同情してくれなんて思っちゃいない。ただ、こうやって私は生かされてきた。全て兄のために。それが癪なだけ」
「癪か……」

自分の人生を狂わされたという事実を癪だという一言で片付けられる彼は、ある意味では器が大きいのかもしれない。もしくは何も考えていないのか。様々な事象をありのままに受け止め、好意を示したり、嫌悪を示したり……それは純粋無垢な子供のように思える。

「そんな感情一つで兄を失脚させようと?私がいなければ、王は死んでいたかもしれない」
「それは…考えてなかった。だって殺すつもりなんてなかったし……」

あの錬金術師に嵌められたんだ、と愚痴るフィリップがひどく幼く見える。

「ならば、計画が失敗してよかったのでは?貴方は肉親を殺さずにすんだ」
「でも私は処罰を受けるだろう。……ほら、結局、兄は助かって私が嫌な目を見る!」

そら見たことか、と言わんばかりに声を張るフィリップにフランシスは笑い声を漏らした。

「はは……。だが、それだけのことをしたのだから、仕方がない」

バカにされたように感じたフィリップは眉をしかめた。悪態をつく代わりにフランシスの背中を思い切り叩き、ふてくされたようにそっぽを向いて再びベッドに突っ伏した。

「機嫌を損ねさせたかな。悪かったよ。王弟殿下」

詫びの言葉を入れても頑としてこちらを向かないフィリップの肩にそっと触れた。ピクリと一瞬肩を震わせたが、今度は振り払わずそのまま続けさせた。しばらくそうさせていたが、思いついたようにフィリップは上体を起こした。フランシスはただ見ていた。

「私の話はいい。お前の話が聞きたい」
「別に特別な話はないさ。ただ人より長く生きているだけなんだから」
「長く生きていればその分面白い出来事に出くわす可能性もあるだろ」

偉そうな命令口調は変わらないが、フィリップの目は一転して好奇心に満ちている。
プレゼントを期待する子供のような表情を見せる彼を落胆させたくはなかったので、フランシスは今までに経験したことを語って聞かせた。自分がテンプル騎士団の騎士であったこと、そこで薔薇の谷に逃げ込み、そこの姫と恋におちたこと、彼女がヴァンパイアだったこと、そして自分もヴァンパイアとなりその一族の後継者となったこと。フランシスにとって最も非日常的な体験談だったが、フィリップはそこらの話にはあまり興味を示さなかった。ヴァンパイアという特異な生き物を前にして、恋愛話など聞きたくなかったようだ。その代わり、様々な土地での見聞録には目を輝かせた。

「ヨーロッパはほとんど回ったのか?」
「そうだな、貴方の知ってるようなとこは行ったんじゃないかな」
「あそこは…水の都は?」
「ヴェネチア共和国?あぁ、行ったよ」
「街が湖に浮かんでるとか、本当か?」
「みんなゴンドラを使っていたよ。実際のところ、そんな楽しい話ばかりでもないがな。水害などは大変らしい」
「へぇ……。じゃぁ、砂漠は行ったことある?」
「いや。でも行くことになるだろうな」
「砂漠に行ってみたいんだ」
「なぜ?」

フィリップは少しの間無言だったが、唇をかすかに上げて言った。

「あそこには本物の太陽がある」

その意味は探るまでもない。フランシスはフィリップをじっと見つめ、少し微笑んだだけだった。
フィリップはそれで満足したようで、にっこりと笑った。

「あとは……海に行きたいな」
「海ならそう遠くないじゃないか。ブルターニュなどには行かないのか?」
「私は、行った事がない」

わざと主語を強めて言ったのがわかった。

「行こうと思えばこれから行く機会もあるだろう」
「行かない。そういう意味で行きたいんじゃない」
「わがままだな」

柔和な笑みを浮かべたまま、軽く頭を小突けば、フィリップは少し驚いたようだった。

「私は旅行したいわけじゃない。ただ……今の肩書きも、今の環境も全部捨てて、どこかに行きたい。海は、どこまでも何もない」

心の奥からこぼれるような、無防備な声色だった。フランシスは、少しの沈黙の後、そうか、と答えたきりフィリップの方を見なかった。